鉄人まな板ショー
” ミンポン ” 通信 No . 5

ルンタ


・・・自由な魂の消滅だ。

だが、バラモンの教えにある。
もし悪霊が虎に鋭き牙を与えるなら、
神は鳩に翼を与えるだろう。

1971年アメリカ映画:「バニシング・ポイント」
盲目のDJ スーパー・ソウル

 
 

NHK BS年末番組 1969年 新宿駅西口のフォークゲリラ特集
「声は届くか」 


ええ加減な者の戯言だと思って読んでもらえればと思うのだが・・・、

ざくっと適当に言ってしまえば、
第二次世界大戦が一応終結し、
アメリカ経済の発展を軸に、庶民にそれなりの経済的余裕が
生まれた事を背景に、

自分達の自由や人権を主張する機会が出来たのが、
1960〜70年代の様々なムーブメントであったのだと自分は思っている。
( その後、半世紀を経て、独占した資本や権力が
人間性や支配される側の自由を、
傍若無人にないがしろにし、
悪魔のような振る舞いが横行する現状を思えば、
それはまるで、あだ花のようにも思える。)

そのようなムーブメントの一環としての
1960年代末フォークゲリラに於いての唄は、関係性構築ツールとしての
機能を受け持っていたのだう、
誰もが唄を聞きに集った訳では無かったのだろうし、
何か新しい事が始まりそうな予感や期待が、皆を集わせていたのだと思う。

しかし、当時の学生運動による変革は、挫折とゆうより、
意味の無い思い上がりや拙さを
一般大衆からはすでに見透かされていたし、
一説によればビートニクを発端とするヒッピームーブメントのように、
従来のあらゆる価値観を見直そうとする人間性回帰も、
人間性として昇華しきれない欲望(薬物、SEX)や、
見かけ倒しで、既存の捉え方から脱却出来ない価値観などにより、
社会から、受け入れられる事なく乖離していったのだと思う。

何か新しい事、新しい時代へ、
誰しもが自由に人間らしく生きてゆく事の出来る社会への変革・・・、
それは一体どこに向かうべきだったのだろうか?

しつこく、予々、自分は思っているのだが、
加川良アルバム「親愛なるQに捧ぐ」の中の一曲 " 下宿屋 " に登場する、
高田渡・加川良・シバ・岩井宏らの唄に流れる思いの先に
その答えがあるのだと思っている。

一口に四畳半フォークと言うが、かぐや姫の「神田川」と、
シバの「ハッピー・ニュー・イヤー・ブルース」(あまり知られた曲ではないが、)は、
明らかに意味合いが違うと思う。
「神田川」は変わらないであろう社会に生きる鬱屈した哀愁を唄い、
シバの「ハッピー・ニュー・イヤー・ブルース」は
自分達の新たな価値観をユーモラスに謳歌する唄にも思える。
高田渡は、巷に暮す人々の人間性に光を当て、
加川良は、新たな価値観を携えた者としての開かれた未来を唄い、
岩井宏は、どこまでも社会で当たり前に暮らす者として大切にしている優しさを唄う。

誰しもが自由に人間らしく生きてゆく事の出来る社会への変革・・・、
それは、一口に言ってしまえば、
人間性を大切にする事が可能な新しい価値観を、
私達自身の中に築き、私達自身が変わっていてゆく事ではなかったのか?

近代の資本主義の在り様は、需要と供給のバランスの上に成り立つ事を踏み超え、
限りない需要を生み出す事を目的とするとゆう。
( 限りない需要による永遠の消費は、
やがて、この惑星をも燃やし尽くすのだろうけれど・・・。)
限りない需要、永久に欲する欲求を私達人間に生み出す為に、
それは、煌くイメージ ( かっこよさ ) を創造し、私達に刷り込んでゆく事を見つけ出した。
元来、個々の違いであったところの機能を、 
上下(強弱)の差異 として位置づけ、それに光をあて、煌き ( かっこよさ ) として装わせる、
( 古今東西
の統治者達が行ってきたイメージ戦略の踏襲なのだが )
その装わされた煌き ( かっこよさ ) に対する憧れを、
私達は生まれてこのかたずっと刷り込まれてきたのだと思う。

装われた煌き ( かっこよさ )  を追いかけ、自分達の命を消費してゆく・・・、
この社会を支配する者にとって、何と扱い易い者として、私達は踊らされ続けてきたのか。

そのような刷り込まれた煌き ( かっこよさ ) に惑わされず、
個々の機能を違いとして捉え、何よりも人間性を価値観の基準として生きる主体的な在り様を目指し、
私達自身が変わってゆかない限り、
誰もが、自由で人間らしく生きていけるような社会に向かってゆく事はないように思うのだ。

 2023. 1 . 10   山田ほおぼう